海老塚季史 " 旅と生活 "

s+arts、2024年4月12日〜4月27日

現代作家画廊個展

鑑賞日:4月12日(金)

 

何かを手に取る。そのものが何であるのかは理解している。そして、その理解以外の何かも、そのものは有しているに違いない。そこで、その手にしたものをよく見る。よく見るなかで、疑念がわく。私はなぜそれを手にしたのか。どうしてそのものと私は向き合っているのか。それはよくわからない。偶然とは言わないが、それは予期できないことだったから。そこで、手に取ったものを観察する。そのものの形を変えず、世界のなかでの在り方を変えることはできるだろうか。そのものを私が手にしたときに、それは在るといえるのだが、そのものが本当に在るということは、どういうことかを確かめたい。そのために、少しだけ操作をしてもいいのではないか。そのものを改変するわけではない。意味も変わることはない。ただ私が手にしたために、変化が起きてしまう。それはその存在の場を、別の場所に移すことで、新たな関係性を発生させる行為だといえないだろうか。だから、意図しない関係を生み出すために、私は何かを手に取る。

吉山裕次郎「Destruction and Creation」

ギャラリー58、2024年4月8日〜4月13日

現代作家画廊個展

鑑賞日:4月12日(金)

 

夢のなかでしか存在しない場所がある。現実のある建物や通りと似ているが、どこか異なっている。もしくはよく知っている場所に、知らない建物があるのだが、その場所の一部だと認識して、夢のなかで行動する。その夢のなかの場所に辿りつく方法もさまざまで、なにかのプロセスを経て辿りつき、この場所は前にも来たことがあると、夢のなかで思う。現実世界では、過去の記憶を繰り返し思い出すとしても、どこかしら改竄をしてしまっている。自分が本当に経験をしたのか、記憶のなかで捏造をしたのか、それとも夢の出来事だったのか、わからなくなる。その無意識が作り出す歪みのなかにある、確からしさ。どんなに変更が加えられていても、現実のある一点と結びついているもの。それゆえに、混乱が生まれるのだろう。記憶と真実の差異は、大きな問題ではない。外形的なものでしかなく、比較によって得られるものはない。それでは、あの夢のなかにしか存在しない場所には辿り着けないから。

 

 

アブソリュート・チェアーズ

埼玉県立近代美術館、2024年2月17日〜5月12日

現代美術テーマ展、自主企画単独開催

鑑賞日:4月12日(金)

 

道具には定められた機能がある。かといって機能だけを求めなくてもいい。そればかりか機能とは異なった意味を付与されることがある。その意味が増殖し、道具の機能が無化されて、意味のみが独り歩きするときに、その道具の本質をどのように見極めればいいのだろうか。その場合は原初に立ち返ればいいのがだ、その道具はすでに意味にまみれてしまっている。その意味によって構造化された状態から脱出するために、意味をサーベイすることも必要だとは思うが、その一方で、その道具がどのような状態で成立するのか、という問いも必要だろう。その道具の機能が失われるのは、いつか。どのような時か。それはなんでもない、特別でもないときに現れる。ほんの他愛もない出来事で、機能は失われてしまう。しかし、それに気づくっことは稀だ。そして気づいて、その姿を見たときに、原初が出現する。自分がなにを欲していて、その機能が必要だったかを知ることになる。

 

 

佐野陽一「眩暈の岸」

GALLERY TAGA 2、2024年3月28日〜4月22日

現代作家画廊個展

鑑賞日:4月5日(金)

 

私の目の前には空間が広がっている。そこには光があり、空気があり、木々や水や人間が作った構造物など、さまざまなものが充溢している。あるとは感じにくい大気も、時には風となって、その存在を示してくる。見るという行為を焦点を当てることに限定しないならば、その大気と光の揺らぎは、無限ともいえる距離を有している。焦点が定まっていなくとも、感知したという自覚がなくとも、目にはその情報が入ってくる。夜空の星を見上げるといい。その距離と時間は確実に存在するのに、体感することはできない。しかし、その距離と時間を超越して目の前にあるものたちを平面上に置き換えてしまうシステムがある。さまざまな事物から反射された過去の光を定着させることによって、かつて私の前にあったはずの距離は消えてしまう。その距離を取り戻すために、消さずに、圧縮する方法はないものか。ある距離のなかで世界は反転しつつ、まだ実体を保っている。そのようなシステムを介在させることで、私がその空間のなかに佇んで、光を、風を全身で感じていたことも、平面に埋め込もう。その光景を実際に体験したかった人も見ることになり、私の存在も記録されることになるから。

秋野ちひろ展「Bake」

Gallery SU、2024年3月23日〜4月7日

現代作家画廊個展

鑑賞日:4月3日(水)

 

こころのなかに触覚を伸ばす。自分のなかを不定形ななにかの形を掴もうとする。感触があった部分から全体像を探していくが、感覚も動いていき、全体像はあやふやになってしまう。触れることができた部分をつないでいき、その形を確認しようとする。さて、どのように現実の物体に置き換えていこうか。もともと形などない。質量もない。それに仮の姿を与えようとする。やはりそれは形であって、形ではないものにしなければならない。触れた軌跡のみを物体にして、しかしそれは虚ろともなる。その虚ろではあるのだが、それは空っぽというわけではない。もともとは私のこころで、そこには気持ちが詰まっている。形について考えてきたが、本を正せばこころが問題だった。そのこころを直接に形にするにはどうしたらいいか。触覚はそのままに、内側から満ちてくるものを導いていく。それが仮の姿だとしても、それらは私のこころだということができよう。そして触覚との接点、その感覚が視覚化され、こころの全体が定形を拒むために動いているということに、それは非常に微細でゆっくりとしたものなのだが、安らぎを覚える。

中平卓馬 火―氾濫

東京国立近代美術館、2024年2月6日〜4月7日

現代物故写真家回顧展、国立美術館朝日新聞社共催単独開催。

鑑賞日:3月26日(火)

 

彷徨う時になにを見ているのか。彷徨うことが自らの生の証としている時に。見たものすべてが自分自身となるというのだろうか。しかし見ているものは即座に次の光景によってかき消されていく。その移ろいを、視覚的にとどめなくてはならない。彷徨い、移ろうことが、生きるということだから。と言いつつ、自問する。視覚的に固定されるということは、どういうことか。その固定されたものは、何を現すのだろうか。表さずに現れるものを信じる。それは光景の背後から出現するに違いない。即物的であればあるほどに。即物。物に即する。目の前にある世界。それは物体であり物質である。大気も水蒸気も波も。すべては物として私に押し寄せてくる。私はその物を受け止めなければならない。私は物の隙間を彷徨っているのだから。押し寄せてくる物たちを、私の生のすべてでもって跳ね返さないとならない。でないと、私は物に飲み込まれてしまう。

 

 

生誕120年 安井仲治 僕の大切な写真

東京ステーションギャラリー、2024年2月23日〜4月14日

近代物故写真家回顧展、公立私立美術館3館巡回

鑑賞日:3月26日(火)

 

写すということを写るということを考える。被写体として印画紙に定着された像は、写したいと願った像と、どこか違う。写したいものを写すための技術が、問題になるのか。その前に、写したいものとはなにか。さらには写るということは、どういうことなのか。その問いを重ねつつ、像を生み出していく。様々な手法で。様々なものを参照して。写したいものは、目の前にあり、見えているその光景ではない。その光景の一部を切り取ったところで、その一瞬の光を固定したところで、それは写したいものとは異なっている。写したいのは、世界に眼差しを向ける私の感情であり、私がなにを見ているかだ。その自問自答を繰り返していくなかで、新たな問いが発生する。写されるということは、どういうことなのかと。世界は切り取られ、像となることを望んでいない。しかし、像は浮かびあがってしまう。写されるということへの自覚もないまま。しかし、写された瞬間から、被写体の存在とは関わりのない物語りが始められてしまう。