川田順造『サバンナの博物誌』

読書録

 

川田順造、『サバンナの博物誌』、ちくま文庫、2001年12月20日第2刷

挿画:小川待子

 

こうした、新しい要素のとり入れ方で気がつくのは、新しい要素が古い要素との、直観的にあきらかな機能上の類似に基づいて採用されていることである。だから新しい要素は、より耐久性があるというような点で、古い要素を改良した代替物にはなっても、技術全体の枠組を変えるもとにはならないのである。(233-234頁)

 

 

 

VOICE 坂本太郎展

コバヤシ画廊、2024年3月25日〜3月30日

現代作家画廊個展

鑑賞日:3月26日(火)

 

地表が膨れ上がる。その体積をどのように把握するか。表面積を計測しても、その量塊を把握することはできないが、その内側を見ることもできない。そうであるならば、表面を厚みとしてとらえて、その厚みのなかに体積を埋設すればいい。そのためには地表を別のものに置き換えなければならない。さらに別のものの表面もまた、そのものの質感を破棄するために、さらなる別物へと置き換えなければならない。そのように二重に隔てられた表面ではあるのだが、さらにはその背後には空洞を孕んでいるとしても、その物体は塊として立ち上がる。その強固な表面をさらに物体として際立たせるために、異物を異物として身にまとう。加えて、表面に厚みがあることを示すためにも、視線は跳ね返さなければならない。硬質な表面によって視線を透過させないことで、物体は存在する。いくつもの部分の複合体として。塊であることを視覚的に拒否することで、塊を意識させる。そして、その地表は膨らむと同時に硬化していく。

高山登

YOKOTA TOKYO、2024年2月5日〜2月22日

現代物故作家画廊個展

鑑賞日:2月19日(月)

 

見えているはずなのに、意識しないで目を向けないものが、世の中には多すぎる。すべてを等質に見ることは、不可能だとしても、それらは日常にありふれており、人々の生活の一部ともなっている。意識しないのは、無意識のうちに意識の外に分類しているからだ。あることはわかっており、その存在の理由も理解しているが、無いものとする。下部構造のさらに下に据え置こうとしている。しかしそれは在る。もしくは居る。それらは、彼らは共同体を形成している。その共同体の姿もまた、世界の一部であり、世界を認識する入り口となる。その入口をご覧にいれよう。その臭気とともに。視覚以外でもその存在を認識するように。しかし、認識されるためにその存在を白日の元に晒した時から、臭気は次第に薄れ、その表面も滑らかなものへと変質していく。同化を求めているわけではないのだが、認識されるにつれて、存在が薄められていく。しかし無くなりはしない。入口がより開かれただけなのだから。

飯嶋桃代展 Sphinx―人間の台座

ギャルリー東京ユマニテ、2024年2月5日〜2月24日

現代作家画廊個展

鑑賞日:2月19日(月)

 

手に入れるためには、まず失わなければならない。充実を求めるために、虚ろを設る。かたちとはそれ自体で成立しているのではない。物体としても意味としても、なにかのかたちとしてあるのだから、そのなにかを求める必要がある。かたち以前のなにか。それを創り出そう。手を触れるとかたちができてしまうから、なるべく手を触れないように。かたちがなにかの指標とならず、かたちが自ら意味を発するように。吸い込み、吐き出さず、凝縮してゆく。なにかが。その虚ろに流し込まれるのは、影。過去の行動の軌跡を内在し、物質としては変容している。そして実体がない。かたち作られると同時に消えていく。そのような物質を流し込み、凝固させる。内と外、上と下といった空間の概念を反転させる。自らを支えるものを見つけるために。自らがなにによって成立し、自立しているのか。それを探すために、内は外に出て、外は内へと入り込む。反転し凝縮した世界のなかに閉じ込められ、さらに虚ろを求める。

豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表

東京都現代美術館、2023年12月9日〜2024年3月10日

現代作家公立美術館回顧展、自主企画単独開催

鑑賞日:1月18日(木)

 

観察をする。対象を設定して、その対象が何ものであるかを。自分との関係性から距離を測ることはしない。自分と対象との間に起きる出来事には興味はない。その出来事は結果として生まれるものではあるが、結果であって、目的ではないのだから。戦略と戦術を間違えてはならない。そこで観察のためには、繰り返しが必要となる。繰り返しの回数、その量で結果は変わらない。1+1は2にならず、1のままでなければならない。加えるのではなく、乗算となるように、そして量で意味が変わらないように。量は純粋に量でしかなく、新たな意味を持ってはならない。その乗算は、意味において同質のものから構成される。そして決してヴァリアントを作らない。物事は変わらないということを証明するために、同じではないものを作り続け、観察する。観察は制作と同義となり、制作をすることによって、観察は消えていく。観察が消えた時、私と対象との距離もなくなり、私は消える。私が対象のなかに含まれることはなく、制作と一体化することもなく、ただただ私は消滅し、同じ意味を持つ夥しい数の何ものものかが、残されていく。

マティス展

東京都美術館2023427日〜820

近代物故西欧作家回顧展、メディア共催大規模巡回展

鑑賞日:610日(土)

 

彼は何を見て、何を描いているのだろう。ものの形なのか。ものの色なのか。人物と室内の調和、あるいは不調和なのか。描くことそれ自体と言い切るには、画面のうえで行われているすべての出来事に膨らみがありすぎる。最晩年に至っても、対象を手放すことはなかった。線は時として色彩となって現れる。その逆もまたしかりで、色面は画面を分割する線として機能する。それはある段階からで、それまでの彼の関心は別のところにあったといえる。どこに転換期があったのかと問うことも困難だ。常に転換しているのだから。そのなかでも面と線の交錯は、大きなトピックとして立ち現れる。人物のなかよりも室内のなかにそれは認められやすい。隣り合う、重なり合う色彩が発生させる空間がその主題のようでもあるが、空間は室内を再現的にしたものではなく、空間の前後を失わらせる働きを持つ。前後を失った空間のなかに人物は座る。座る場所はなく、その体重は支えられることもない。空中に異様な格好で静止しておる。空間の重力を発生させる地点として。

生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良

神奈川県立近代美術館 葉山、2023422日〜72

物故戦後作家回顧展、公立美術館巡回共同企画

鑑賞日:68日(木)

 

人の形象を成しているから、それを具象という。figurative とされるものだ。とはいえ、人の形象が別の何かを表すための記号であるとしたら、それは具象なのだろうか。抽象abstract と呼ばれるべきであろう。その時に人体は、世界を表現するための仮の姿でありそこには人間存在についての言及は微かなものとなっていく。世界の原理の模式図が表されているのだから。しかし世界には人間がいる。その存在を無くして、模式図は成立しようがない。人間を人間として表すことなく、世界を抽象しつつ、自らの生をそこに投影する。そのことをなんと呼ぶべきか。それこそが具体concrete ではないだろうか。世界は具体的なものとして存在する。人間一人一人も、身の回りにある事物も、目に映る草木も、すべて具体的なものだ。その具体的なものたちを統括する原理があるとしたら。個別を超えた普遍があるとしたら、そのような問いを立てることは可笑しなことではない。だからこそ人の姿を借りて人でないもの表そうとする。人は世界の一部であり、そこから反転して個人を基点に世界を統括しうる可能性を持っているのだから。