堀江敏幸、『ロベール・クートラスをめぐる断章群』

読書録

 

堀江敏幸、『ロベール・クートラスをめぐる断章群』

新潮社、2026年9月30日

 

商業主義的な美術業界から離れて自室でカルトの制作を続け、その小さな星々からなる世界を創造していったロベール・クートラス。第二次世界大戦をはさみ、再びパリに戻って画家になるまでにクートラスが立ち、眼差しを向けた土地を巡り、その時々にクートラスの心の内側でなにか起きていたかを読み取っていく。

 

「仕事というのは、出会いの瞬間までじっと待ちつづけ、見えない準備を重ねることだと後年のクートラスは語っていた。焦らずに待つ段階を経なければ、大事なものを取り逃がしてしまう。」(218頁)

 

 

 

『はじまりの風 五十嵐威暢のことばのいぶき』

読書録

 

編:新島龍彦、三橋光太郎、坂井佑有、『はじまりの風 五十嵐威暢のことばのいぶき』

通常版、2026年5月20日 第2版

 

デザイナーで彫刻家の五十嵐威暢が2011年よりツイッターで発信していた言葉を集める。2013年に『YELL』として制作された本を造り直したしたもの。デザイナーやアーティストが仕事を進めていくうえで指針となり、かつ、生きていくうえで折々に必要となる言葉が、縦書きとに横書きを並置しつつ、レイアウトされている。章の扉には五十嵐が風を形象化した文字のみが掲げられる。

 

「若い頃の僕を励ましてくれた、

 2人の大先輩の言葉を忘れたことはない。

 どんなに小さな仕事でも、

 誰かが見ていると語ったのは倉俣史朗さん。

 どんなに小さな仕事でも、

 才能は開花すると評したのは田中一光さん。」(103頁)

s-shiko.stores.jp

中村稔、『束の間の幻影—銅版画家駒井哲郎の生涯』

読書録

 

中村稔、『束の間の幻影—銅版画家駒井哲郎の生涯』

新潮社、1991年11月10日

 

1976年に56歳で亡くなった版画家の生涯を、家族ぐるみの親交があった詩人が描く。東京日本橋の裕福な家庭で生まれ育った駒井が、版画と出会い、戦争と家の没落を経て、銅板に幻影を刻み続ける。幻影は幸せな時間とともにある夢想から生まれるものではなく、内なる傷口をさらに押し開くようにして這い出てくるものとしてあった。その理由は本人にしかわからず、しかし、版によって反転しつつ転写される。

 

「結婚しても酒はちっともとまらなかった。むしろもっと烈しくなってしまった。その原因はなんだかオレには良く解っている。へんないい方だがそれはオレの裡にある道徳性のためなんだ。」(230頁)

 

 

 

稲垣美侑「野辺」

稲垣美侑「野辺」

KATSUYA SUSUKI GALLERY、2026年7月18日〜8月9日

現代作家画廊個展

鑑賞日:8月9日(日)

 

絵画は物体ではあるのだが、結局のところは幻影を創出する装置としてあるのだと考える。その画面に描かれる幻影とはなにかと問われると、なにものでもないものや、可能性としての世界ではなく、今私がいるこの世界の代理物、しかしそれは模倣物ではない、と認識していると答えることができよう。そこで、画面に描かれた代理物としての色面の集合は、その色面を操作している私の周囲の空間と入れ子構造を持つことになる。私の周囲もまた、その外側の世界と入れ子構造になっている。だから作品がアトリエを出て、ある場所に設置されるならば、作品はその場所との関係を持ち始め、新たな入れ子構造が発生することに。入れ子構造自体の構造がなにに依拠しているかは問わない。世界を開いていく構造として認識することで、作品はその内側に意味を持つことができる。外部との関係によって内部が形成されていく。伸縮する関係性の影が投影される被膜の一つとして、画面はつねにある。

www.katsuya-susuki-gallery.com

ほぼ、空:青木淳 + リチャード・タトル

ほぼ、空:青木淳 + リチャード・タトル

東京オペラシティ アートギャラリー、2026年7月18日〜9月23日

国内現存建築家、海外現存美術家コラボ展、自主企画単独開催

鑑賞日:8月8日(土)

 

空というものが存在する。カラ、エンプティネス、ソラ。何もない、もしくはなにかはあるのだが、限りなく稀薄でないものとしてとして認識する。その空に近接するかのように間が存在する。いや、間が存在するかしないかは、文化の異なりとしてあるのかもしれない。空を前提としたときに、間は空に含まれるものと考えることもできるのだろう。しかし、そこから間を取り出して、構造化し表現として現出させようとした展覧会があった。その実体を体験したものは、それほど多くはないだろう。再構成された展覧会は、原典とはまったく別の構成が採られていた。その現実と伝説を引き受けたうえでの、空。彼方の概念に寄り添い、彼岸に渡ったうえで現出する空とは何か。それは色彩だと、彼方の人は言う。すべては光でしかないと。ただ光がある。そこに諧調があり、他にはなにも存在し得ない。すべては光の諧調のような関係性と接続性の問題でしかないと。そこには空だけがあり、間はない。

www.operacity.jp

 

杉本博司 絶滅写真

杉本博司 絶滅写真

東京国立近代美術館、2026年6月16日〜9月13日

国内現存写真家国立美術館回顧展、共催:日本経済新聞社

鑑賞日:8月8日(土)

 

目の前の平面に定着されたとされているものは、かつてその場所にあった光の反射だ。実体ではない。照り返された光の諧調が、写し取られ、もう一度現れたことになる。このように何重にも実体から遠ざかりつつ実体と近似した像を導き出す装置は、常に、さまざまな関係性において、真贋が問われてきた。なにをもって真、なにをもって贋とするかは曖昧なまま、その線引きはその都度揺らいでいる。光の反射を写し取るまったく異なる技術が誕生し、さらに真贋の境はなくなっていく。であるならば、実体とされるものが、真贋の境にあるとしたら、そこから何重にも反転して浮かび上がる像は、どちらになるのだろうか。贋には価値はないが、贋としての意味は持っている。贋という言葉が適さない場合は、代理物と言ってもいい。もしくは、写し、だろうか。写しを写したとしても真には転換しない。その二重の写しの意味だけが増幅していき、もはや実体を問うことはできない。それは神と信仰の創造とも近似している。

 

 

エットレ・ソットサス—魔法がはじまるとき、デザインは生まれる

エットレ・ソットサス—魔法がはじまるとき、デザインは生まれる

アーティゾン美術館、2026年6月23日〜10月4日

海外物故デザイナー私立美術館回顧展

鑑賞日:8月8日(土)

 

建築は人の生活の一部であり、外周でもあるために、その姿は人の行為と結びついている。生活を形作るものたちが手作業から工業生産へと変化するとともに、その形体から手作業が減っていき、建築からも手跡が減っていく。しかし、それと相反するかのように生活に、そして人の姿そのものに情報が付加されていき、その情報は極端に増殖をしていった。その時に、建築は、そしてその内部に設置される家具は、沈黙を貫いているままであるべきだろうか。電気的な情報の氾濫に対抗するかのように、家具もその姿として情報を発するべきではないだろうか。元来の機能を維持したまま、色彩と形体によって人に作用する。この思考をさらに先に進めよう。色彩と形体が機能を生みだす領域もあるだろう。出自としての機能がかろうじて確認できるので、人はそこにまだ機能を見出して、なにもものかとして使用しようとする。その機能性は別問題として。その時に家具は建築の様式から離れ、家具としての様式を獲得する。

www.artizon.museum