樋口 朋之 DUB/stance

樋口 朋之 DUB/stance

The White、2024年5月8日〜5月26日

現代作家画廊個展、企画:梅津元

鑑賞日:5月23日(木)

 

象徴といい、指標といい、記号という。すべてのものは他のなにものかを指し示す代理物でしかなく、そのものは意味も奥行きも持たない。そのために交換可能であり、部分的な引用も可能となる。それは私自身のことだとしても。私自身には肉体があることになっているが、それは仮の姿でしかない。思考は肉体を持たないからだ。まずはそう言い切ろう。他人の思考も他人の肉体とは別物であるから、思考のみを抽出、置換することになんら抵抗はない。それは過去100年以上にわたって、行われてきたことでもある。しかしその抽出、置換の作業には肉体が伴う。その肉体は不要なので、その作業そのものを記号と化し、意味を排除していく。それはまさに純粋な意味での労働でしかなく、その結果表象されることも労働でしかない。労働は手段ではなく、目的となったときに、可能性が拡がる。その方法でしか、労働は可視化できないから。その可視化された労働は、もはや労働というカテゴリーには収まらない。ではどこへ行けばいいのか。外へ。外へ。なにものかの外へと向かうために繰り返す。

川崎祐「未成の周辺」

川崎祐、「未成の周辺」

BOOK AND SONS、2024年5月2日〜5月21日

現代作家画廊個展

鑑賞日:5月20日(月)

 

場の意味はなにか。場は意味を内在させるのか。その内在化した意味は、どのように外在化されるのか。その仕組みについて考えてみたい。かつて地霊という言葉で、場所の意味を解き明かそうとした建築史家がいた。場所には意味があり、その歴史は蓄積されている。現状としては野っ原だとしても。その場所が現在野っ原ということについての歴史がある。それは理解した。そうでしかないだろう。この地球上のあらゆる場所が。そしてそれは地球を離れて宇宙にまで及んでいる。その宇宙の一点となってしまった装置からの信号もまた、画像へと変換されるなかで、架空の空間の歴史化が始まっている。そんなこともわかっている。だからこそ、まず、立つ、その場を設定することからしか、動き出すことはできない。その場に立つ私はなにを見ているのか。地霊は。それは後から現れるものとして、私の視線は先に向かう。空ではない。そこには大気があり、視覚的にには水蒸気として現れる。その水蒸気こそが霊という世界が出現する。

光景

光景

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吉岡実『神秘的な時代の詩』

読書録

 

吉岡実、『神秘的な時代の詩』、書肆山田、1976年8月15日

 

一行を単位として現される像が、螺旋を描きつつ変容していく。繰り返しは変化するために。類推を許さない飛躍が続き、そして突然の断定による断絶。エクスクラメーションマークは、ネオ・ダダイズムのシンボルでもあった。さらに意味よりも音として出現する「崑崙」。

 

わたしはネコを抱く疑問符の人

すべてのものを満喫したくない

あらゆる壁を剃る

血を剃る

ころびたい愛

曲りたい矢印!

「夏から秋まで 池田満寿夫の版画の題名を籍りて」

 

野村和弘 「片方のイヤリング(落とされ、ペチャンコにされた、片方のイヤリングは、まだ妖精とともに)」

gallery 21yo-j、2024年5月16日〜6月2日

現代作家画廊個展

鑑賞日:5月18日(土)

 

世界は世界の欠片の集積として在り、すべては欠片でしかなく、その欠片は欠片であるとともに、なにものかの隠喩として存在している。その隠喩が指し示す先もまた、欠片としてなにものかの隠喩でしかないのだが、その指示対象を変貌させていく眩暈のなかにこそ世界は存在し、私はいる。世界のあらゆる欠片の意味付けを、置き換えていかなければならない。100年以上前にフランスでそのようなゲームを始めた神学者がいたような気がする。と思えば、日本でも100年ぐらい前に、欠片のなかに埋もれた美を救いだせると宣言をした宗教学者がいたとかいなかったとか。そのゲームは面白いが、今、そこに加担することはできない。しかし、そのゲームのために世界は意味の関係性でしかなくなってしまっている。そこで、私は私自身の身体を欠片と同一化する。労働という形で。観念や言葉の操作ではなく、それ以上に労働に価値を見出さなければならない。生産性という言葉とは関わり合いのないところで。労働が私自身の代理物であり、私を世界の欠片として存在させるために。

佐原和人展 「色香と十二」

Select Shop - 我逢人 -、2024年5月9日〜6月2日

現代作家画廊個展

鑑賞日:5月18日(土)

 

記憶を呼び覚ます方法として何があるか。多くの場合は言語と記憶と結びついていることが多いとは思うのだが、それと同じくらい重要な記憶として触覚がある。では嗅覚は。在る瞬間、急に過去の出来事を思い出すことがあり、しかもそれは何故思い出したのかも不明なのだが、体験として蘇る。それは嗅覚だったのか。視覚は現在にあり、嗅覚は過去にある、といったデザイナーがいただろうか。その場合、触覚は未来を生み出す可能性があるのだが、そこには嗅覚という過去がなければ成立しない。過去の嗅覚は欲望と結びついている。嗅ぐことで物事を認識するというのは、動物的な本能の領域だからだろうか。嗅覚を刺激されると頭頂部から四肢に反応が伝わる。その匂いを嗅いだことはないはずなのに。そこで脳内に創造される、かつて体験したかもしれないもの、しかしそれは現世ではないかもしれないものを、前頭葉に移して視覚に置き換える。身体と親和性のある水の力で。香りも液体に溶け込んでおり、私の身体も液体でできており、その身体の痕跡も水の力を制御しつつ跡を残す。

衣 真一郎「積み重なる風景」

KATSUYA SUSUKI GALLERY、2024年5月11日〜6月2日

現代作家画廊個展

鑑賞日:5月18日(土)

 

背筋を伸ばし遠くを見る。視線を定め、足の裏の感覚を探る。その踏みしめる土の、草の、軟らかさ。軽い弾力をもって、反応が身体に返ってくる。その反応を確かめるために、何度も踏む。少しずつ動きながら。目的はあるのだが、目的とは逸れて、感触のみを楽しむ。その楽しみは目的と等価となる。具体的には、絵筆に絵具を着け画布に置く作業の、画布についた絵具が表すものが目的となるはずなのだが、画布に絵筆を置く行為のなかでの、筆と絵具と画布の力学的な反応に、指先から腕に通じて身体全体で応答すると、いうことができるだろうか。そこで目的は変貌し続ける。描くべきものを想起する能力よりも、指先と腕の反応を上位に置き、想起される像は、変貌し続ける。結果として現れた像もまた、腕の快楽のためにその姿を変えていくことになる。安定を求めているのではなく、かといって変わらなければならないという使命を持っているのでもない。そうせざるを得ないなにかがある。斜面を転がるように。時には重力に反して登ってしまうように。

吉岡実『薬玉』

読書録

 

吉岡実、『薬玉』、書肆山田、1983年10月20日初版第1刷

 

ポリフォニーとしての詩形なのか。複数の人物の発語で構成されている。その複数性ゆえに、語句は分離したままでいいのではないかとさえ思う。統一を求めないで、それぞれの言葉が、物質がばらばらの振る舞いをする。思い返せば、四人の僧侶は、それぞれの死を全うしていた。

 

不用意に使えば

      人間の手の中で腐る

               もしくは死ぬ

ことばと肉体の一部分

          反語的に考えれば それは生きているのだ

洞窟の奥で

     火焔のいただきで

「巡礼」

薬玉

薬玉

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