高嶋英男展

ギャラリーQ2021322日〜43

現代作家画廊個展

鑑賞日:330日(火)


身体を満たすもの。それを確かめるために、土に手を入れる。手の表面を土が覆い、身体を満たすものが何かはわからないが、内側から反発する何かが、土に形を与えていることが確認できる。手を抜くと、そこは空洞になる。まるで私の皮膚のように、内側の不明な、外側だけが可視化されている。その鋳型に仮の物質を満たすことは可能だが、それは私の内側を満たしているものではない。私の内側は可視化されない。たとえ私を切り裂いたとしても。その切り裂かれた断片は常に外側を見せる。そして、常にそれぞれの内側になにかがある。内側を探るのはもうやめよう。それはきりがないことだ。しかし、外側の鋳型、外皮にもう一度目を向けたところで、それは別の物質によって仮の形を与えることにしかならない。であれば、内側がある、そのことを問いとして形にすることで、外皮の詐術から逃れることができるのではないか。そして私の内側は満たされていく。

前田哲明<Recent Work 2021>

gallery 21yo-j 2021311日〜328

現代作家画廊個展

鑑賞日:327日(土)


空を象るために、何ができるか。人の身体も心も空としか言いようのない、物理的な空洞と観念的な空洞とを有している。その空について、古くより様々な言葉を費やすことで、象り、満たそうとしてきたことはわかってはいる。しかしそれらは、空とは何かについて語るのみで、空そのものについて直接的に表すことはなかったのではないか。なぜならその空はすべての人が実感しているから、今更説明の必要がないからだ。誰もが抱えている空に、形を与えようという無謀な行いは、なぜ始まったのか。人それぞれ空の形は違う。私の空を見せたところで、共感は得られない。そのために、いくつもの空によって、新たな空を創り出す。その揺れ動きつつ互いを支える柱たちも空を孕み、その隙間を形づくる。鋳型となるには隙間が大きく、空は空として象られることはない。形が与えられたら、それは空ではなく、空の仮の、しかも偽の形でしかないからだ。

松田ハル個展

DOGO 2021220日〜314

現代作家画廊個展

鑑賞日:35日(金)


目に見えないもの。それは感情なのか、感覚なのか。世界の数式モデルなのか。それらにかたちを与えよう、目に見えないように。見ることを問うているのではない。かたちがどこで発生するのかを確認したいだけだ。発生は原形を要する。ならばその原形も消滅させてしまおう。仮定のなかで、発生の道筋を逆転写する。それは決して過去へと向かうことはなく、今まであったもののかたちを未来へと解体する。すでに世界は解体されているのだと嘯くこともせず、解体されたものの欠片を拾い集めることもなく。目に見えるという現象を計測ために、もののかたちを見ずに、別の何かへと置き換える無限の同語反復。転写を繰り返すなかで起こる差異を乗り越える必要がある。要点はそんな瑣末な差異ではなく、反復によって生成される飛躍にある。その飛躍を解明するために、逆転写を繰り返す。

金巻芳俊 空蝉センシビリティ

FUMA Contemporary Tokyo | 文京アート、2021220日〜36

現代作家画廊個展

鑑賞日:33日(水)


私の中には複数の私がいる。そうとしか思えないほど、状況によって私は私を使い分けており、それは違和感なくすべて私である。私は分裂をしていない。その時に必要な私として振舞っているだけだ。私の芯は揺るがない。不変といってもいいし、とはいえその芯も実は時間と経験とともに変化しするものだろう。それでも私は変わらない。変化もまた不変の一要素だから。私から常に新しい私が生まれる。古い私をまとったまま、次々と新しい私が出てくる。すべて私なのに。少しずつ変わりながら。私は分裂をしていく。同じ遺伝子を持ったまま、二つに、四つに。どのように統合し直すかは、プログラムされていない。しかし、元の個体に戻らなければならない時もくる。それは今か。まだ先か。戻るためには何をすべきか。もう一度戻りたいはずなのに、その前に分裂する私を覆うものが分裂し始めてしまった。

飯嶋桃代展「Recovery room―ましましいねつるかも」

ギャルリー東京ユマニテ2021215日〜227

現代作家画廊個展

鑑賞日:18日(木)


連鎖という機構。それはあまねく世界にあり、この私の内側にもある。この世界の連鎖から外れるものなどない。だからその連鎖の機構の一つ一つを解明していこう。模型ではなく、象徴に置き換えて。象徴には実質的な機能はないことになっている。機能は象徴となり、無化されずに、言挙げをされる。その時、物質は言葉になる。言葉は、言葉としての機能を放棄することで、象徴としての役割も終える。しかし言葉はそれに満足しない。言葉の物質的要素が蜂起を始める。私に傷をつけろと。私から流れる血を見ろと。しかし、誰も見ない。見ないふりをする。その叫びは聴かなかったことにする。叫び続けているのに。音と物質の連鎖が機能すればするほど、互いが消えていく。だから叫びは発し続けられ、傷は深くなっていく。

速水一樹「JAM」

ギャルリー東京ユマニテ2021215日〜220

現代作家画廊個展

鑑賞日:18日(木)


面を分割し空間に解放する。とはいえ、重力がある。空間は無限に広がるも、常に地へと向かっていく。それをもう一度絵画平面に置き直し、さらに色彩を伴った面に象徴を付与した画家がいたこともある。分割した面を紐で結びつけてぶら下げることで空間へを配置しようとした画家もいた。もういいだろう。今はその作業に意味を見出せない。意味を発生させる必要もないし、空間を捉え直す作業も必要ない。なにかがそこに存在する、そのことだけを問えばいいいのではないか。そのためには存在のバリエーションが必要となる。存在することは自明ではないから、存在していることを知らしめなければならない。全体ではなく部分として。構成された結果ではなく、プロセスとして。人の手から離れたものではなく、常に人の手で変化するものとして。それは存在しているということはなにを意味するのかという問いを、問い続ける。

舟越桂 私の中にある泉

渋谷区立松濤美術館20201 25日〜2021131

国内現代作家公立美術館回顧展、自主企画単独開催

鑑賞日:121日(木)


見ることによって言葉が現れる。消えてしまいそうな言葉たちを、瞬時に捕まえて、ピンで留める。言葉の標本は増えていき、それぞれの時間は消える。順番はなくなり、言葉を回収する準備ができたら、その回収の手順によって選択される。その手順は言語化されていない。あとで更なる言葉を寄せることはあっても、そのルールを規定することはできない。ピンで留められた標本は?ただ順番を待っている。選択されないことも受け入れつつ。それでも時には探索の目に触れることはある。黙って揺れているのみ。もしくは身じろぎもせず。見たことは像として記憶され、言葉はその増幅器として作用する。増幅器は見ていないものに作用し、見ていないものに形を与える。そこで生まれた形は言葉を持っているのだろうか。形が言葉を欲したとしても、壁の言葉に帰ることはできない。