諏訪未知〈pantaloon〉

諏訪未知〈pantaloon〉

gallery21yo-j、2026年5月30日〜6月21日

現代作家画廊個展

鑑賞日:6月12日(金)

 

表と裏、右と左、前と後。対称とされる二つの事柄の際は、往々にして目立つように誇張され、もしくは無いものとされる。二分化されており、その途中の微妙な差異、在ると見なせば在り、無いと見なすことも可能、というような、中間領域は捨象することになっているようだ。同じものは二つとないということが、世界の前提であるはずなのに。そこで、あるものに対して、なにかの部分において対称となり、それ以外の部分ではまるで別物という存在を仮定する。外見において対称的な場合もあり、概念において対称的なものもある。それもまた、表と裏、右と左、と同じように作用するはずだ。その対称となる2つの存在の間を測りつつ、その2つの背後へとされに伸びていく空間のことを考える。対称があり、さらにその背後で別の対称に向かって、何ものかが対となっていく。その連鎖は、円環として閉じることはなく、無限に変異を繰り返しながら延長される。その時に、目の前に存在する一つの対称の欠片は、世界のどの部分と結びついているのだろうか。

gallery21yo-j.com

息継ぎ 「拠点、計画道路」

息継ぎ 「拠点、計画道路」

KATSUYA SUSUKI GALLERY、2026年6月6日〜6月21日

現代作家画廊個展

鑑賞日:6月12日(金)

 

この世界のことを私は知らない。随分と長くこの世界のなかで生きているのだが、世界の成り立ちを、そして私の周囲にあり関りを持つものたちの本来の姿を、なにも知らない。そこで、ある日、なにかしらの方法でこの世界を測定する必要があると考えた。その測定方法とは、私の代理物を世界に投入して、代理物と世界との関係を読み解いていくというものだ。代理物は私であって私ではない。それは最終的には消え去ってしまうなにものかでなければならない。だから影はなく、実体もない、計測装置となる。しかし、代理物によって計測されたなにものかの数値を収集する装置を、私は持っていない。計測はされている。しかしわたしにそれを把握する術はない。そこで、私は代理物を観察する。どこで、どのように振舞っているかを。実体のない代理物だから、その存在する世界も実体のない架空のものとなる。私の存在する世界と、代理物の存在する架空の世界は、薄く重なり合い、引き離されていく。その繰り返しのなかで接点を逃さず、観察は続けられていく。

www.katsuya-susuki-gallery.com

松本陽子 宵の明星を見た日

松本陽子 宵の明星を見た日

府中市美術館、2026年5月23日〜7月12日

現代作家公立美術館巡回回顧展

鑑賞日:6月12日(金)

 

矩形が私を支配する。矩形に出会わなければ、私は私として生活し、日々を送ることができた。しかし矩形と出会ってしまったがために、その矩形に対して、矩形の意味を与えなければならない。いや、与えるという能動的なものではなく、矩形が私に色彩を要求し、矩形自らがその意味を作り上げていく。色彩は言葉だから、描きつつ消していく必要がある。色彩が言葉として定着しないように、左右に上下に揺れ動かし、ほかの色彩へと移行させる。色彩が言葉として機能しない領域に色彩の役割と留め、私の意味を発生させることは可能かと矩形は問う。もしくは、色彩の言葉としての意味を使って、色彩を否定しろと。矩形は色彩ではない。しかし、色彩の被膜をまとわないと存在できない。矩形は物質として存在するが、色彩を帯びた瞬間に、幻影となるからだ。色彩も物質でしかないが、幻影として現れた瞬間に矩形は存在しつつ霧散し、通路となる。しかし、私は通路ではないと矩形は言う。通路の先に存在するものは何かと。

www.city.fuchu.tokyo.jp

栗木清美「remembrance of a forest / ある森の回想」

栗木清美「remembrance of a forest / ある森の回想」

Miaki Gallery、2026年5月23日〜6月13日

現代作家画廊個展

鑑賞日:6月3日(水)

 

私と私の目の前にある様々な事物たちとの間には、隔たりがある。私は私自身をなにものかで覆い、事物たちもそれぞれの理由で覆われている。視線を向けても直接見ることはできない。視線は何重にも覆われたものを通って、切り裂くことはなく、干渉によって揺らぎながら、対象に届く。次第に視線は、私と事物との間に存在する被膜へと向かう。見えているが見えない。在ると思えば、視界から消えていく。しかし、確実に存在する被膜を視覚だけではなく触覚や聴覚も使って感知し、視覚に置き換えていく。被膜は何層にもなり、厚みは伸び縮みする。その層の間から、事物が現れる。目の前に存在しているはずのものとは、様相を変えながら。見たはずのものが見たことのない姿となって、断片的に、部分的に、その形態を変化させながらこちら側にやってくる。全体を見ているはずなのだが、部分的にしか認識できない。その形象の一端を見ることで、存在としての全体を感覚する。

miakigallery.jp

布施琳太郎「タイムトラベラーのための展覧会」

布施琳太郎「タイムトラベラーのための展覧会」

SNOW Contemporary、2026年5月22日〜7月4日

現代作家画廊個展

鑑賞日:6月3日(水)

 

肉体の移動には、時間が伴う。物理的な物体の位置の変化には、力が必要で、その力に時間を掛け合わせた数値が、移動の距離となる。では、時間の移動とは。時間の移動には、肉体の移動が伴ってはならない。物理的な力が、時間の移動には介在しないからだ。複数の場所における時間的な同時性は、概念的な距離の喪失を前提とする。複数の時間のなかで、ある場所が同時に存在するということは、移動のための力が喪失される。ここで移動は静止と同義になる。留まり続けること。けっして動いてはならない。この世界に存在するのだから、時間の経過から逃れることはできないが、その肉体の現象的な変化を最小限に抑えるために、移動を拒絶する。意識は活動しているのだがら、あとは肉体の物理的限界を克服するだけだ。ある人々は訓練によって意識が肉体を超えることができるという。そうでないならば、静止し続けるしかないだろう。

snowcontemporary.com

小林留美、『美学をめぐる思考のレッスン』

読書録

 

小林留美、『美学をめぐる思考のレッスン』

藝術学舎、2019年4月1日

 

美学がどのように発生し、美とはどのようなものかを平明に語ったのちに、カントの『判断力批判』の無関心について丁寧に説いていく。そこからテーマは美容整形、ゆるきゃら、世界遺産、インスタ、AIと展開し、現代社会のなかで、今まさに生成し変化しつつある美の意識について検証をする。

 

道徳的な判断、善いということの判断は美的なそれとは違うのです。というのも、何かのために善い、有用・有益であるというためには、その何かが在り、その何かがなんであるかがわからなければ、それにとってそうすることが善いのかどうかは判断できないでしょう。(31頁)

 

美学をめぐる思考のレッスン

美学をめぐる思考のレッスン

  • 作者:小林留美
  • 京都芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎
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山本 糾《写真によって励起される場》

山本 糾《写真によって励起される場》

ヒノギャラリー、2026年5月25日〜6月13日

現代作家画廊個展

鑑賞日:6月3日(金)

 

自然界には存在しない、しかし自然界にあるものと同じ機能を持つ物質を、大量に製造し、輸送し、積み上げる。あたかも天然の産物であるかのように。その人工物もまた自然の摂理を受け入れざるをえない。風雨にさらされ、溶けて、その形を変えていく。日々変化するその形状を、形として把握するものはいない。ただどこからか運ばれてきては、どこかへと運び出されていく物質があるのみだ。流れる水のように、動き続けて静止することがない。その形は絶えず変化をしているために、物資本来の形というものを持ってはいない。流れる水が、流れる水自体の力によって大地を侵食し、その侵食した形を自らの仮の姿とするように、風雨にさらされて形を変えていく物質もまた、物質内の摂理と外部の力との均衡状態を現わすことになる。その形を影として定着させる。それは瞬間ではなく、時間を伴う変化の一部でしかないから、影は断片の集合として存在することになる。

 

www.hinogallery.com