Raum, one work, 中西夏之

YOKOTA TOKYO、2024年4月15日〜4月26日

現代物故作家画廊個展

鑑賞日:4月22日(月)

 

場=フィールドとは何か。本当にそれは存在するのか。目の前に概念的に空白とされるものがあって、そこに私の身体を没入させることができるのだろうか。場は誰かが設定するものではなく、自分が作り上げていかなければならない。そのために結界が必要となる。まず、領域を決めなければならない。この身体も含めて。その結界のなかに、意味を与えていく。部分部分に。その作業をしつつ、自分は曼荼羅を作っていることに気づく。場のなかに世界の縮図を描いていたと。しかし思う。自分はその世界の外に出ていくために、場に意味を与えていたはずだった。拡張されていく場は、また場の理論に回収されていく。劇場性という名称を与えても、それは限られた空間のなかの出来事でしかない。そこで、場を発生させることに意味がある。そのためには身体の制御できない揺らぎによって振動を生みだす必要がある。その振動は微細で目に見えないものだから、それを可視化する装置が必要となる。崩れ落ちる姿を持つ装置を。

 

ナカムラクニオ、『大人が知っておきたい 図解 教養としての美術史』

読書録

 

ナカムラクニオ、『大人が知っておきたい 図解 教養としての美術史』、イースト・プレス、2024年4月23日初版第1刷

 

先史時代から現代まで美術史のトピックを語りつつ、短い文章のなかで時代を超えた影響関係にも言及し、今のアーティストがなにを創作の栄養としているのかにまで、思いを巡らすことになる構成。

 

美術史を知ると「世界を読み解く独自の眼を持つことができる」(「おわりに」、168頁)

 

 

MUCA展 ICONS of Urban Art ~バンクシーからカウズまで~

森アーツセンターギャラリー、2024年3月15日〜6月2日

現代美術海外美術館コレクション展、主催:ICONS of Urban Art東京制作委員会。メディア共催巡回展。

鑑賞日:4月22日(月)

 

メッセージは伝わらなければならない。共通の記号であり、共通のコードが必要となる。しかし、往々にして伝わらないメッセージを発信してしまうことがある。無自覚な時もあれば、むしろ積極的コードを破壊することを望んでいる場合もある。社会に向けたメッセージなのだから、社会のコードを壊さないといけないと考えているからだ。しかし、それではやはり多くの人には伝わらないし、しかし少数の理解者は満足をしている。そこにもコードが存在するのだから、そのコードを破壊して、共通の記号とコードを使ってメッセージを発信しよう。共通の記号は50年以上前に利用されていたが、コードについては、まだ余地がある。標識のように、万人に了解されるものとして創造が可能だ。これはモードといえばいいのだろうか。あらかじめ共有事項のなかでの差異の発生。なぜその差異が発生するのかも、解説、了解される。共通のコードのなかで。

野坂昭如『一九四五・夏・神戸』

読書録

 

野坂昭如、『一九四五・夏・神戸』、中公文庫、1977年11月10日発行

 

デザイナー・倉俣史朗が読んでいた本の一冊。太平洋戦争末期の神戸の空襲前から空襲中の出来事が、細部まで克明に描写されている。大空襲までで敗戦はあえて書かず。家庭の人間関係、地域の様子、それぞれの心の内。そして目にした光景。読み進めつつ、ウクライナとガザのことも想像する。

そのなか、野坂昭如が、倉俣史朗と同じ体験をしていたことが書かれている。野坂は1930年生まれ。倉俣は1934年生まれ。倉俣は沼津の愛鷹に疎開していた。

「征夫たちは、飛行機の風防硝子の破片や、超々ジュラルミンの屑、また、B29が電探を妨害するために撒く、錫箔のテープなどをこっそり隠しもち、お互いに交換しあったりしていた。風防硝子は切口を強くこすると甘い香りがたちのぼった、いかに砂糖に飢えているからといっても、香りにつられて硝子を食うことまではしなかったが、煙草のまわしのみをするように、互いに破片を鼻にあてがうのだ。」(228-229頁)

 

 

絹谷幸太展 -宇宙からのまなざし ―

√K Contemporary、2024年4月13日〜5月25日

現代作家画廊個展

鑑賞日:4月12日(金)

 

人類の誕生よりはるか以前、数億年の単位で地中で堆積し、凝縮する。そのなかでも、その凝縮にさらに圧力がかかり、できた亀裂に異物が入り、さらに凝縮する。地球の、しかし、表面に浮いている流動物の動きによって作られたものが、そうとはいっても人のスケールでは地下深く沈んでいたものが、これもまた表面の流動により、人の目に触れることになってしまう。その石を人は無機物として分類し、生命のない物体としてとらえているが、本当にそれでいいのだろうか。オカルトとして一笑されるようなことをあえて記すのは、人は石と対話をしていきた歴史があると考えているからだ。宇宙の塵から地球が誕生したというならば、石も人も、宇宙の塵でしかない。その塵がどこからどのように発生したかは知らないが、互いに派生物でしかないという前提に立ち、小石を手に取って、そっとポケットに入れる。空は青くもあり、灰色であり、鈍色でもある。おそらく人間は石を通じて大気を通じ合えるのではないか。呼吸とは違い、交感という方法で。生きるためではなく自らが存在するために、石に触れる。

 

マティス 自由なフォルム

国立新美術館、2024年2月14日〜5月27日

近代絵画巨匠回顧展、主催:国立美術館読売新聞社。メディア共催大型展

鑑賞日:4月18日(木)

 

絵画は、線と色彩について語ることが多いが、重要なのはそれらの量ではないかと考える。線は抽象的で幅のない、概念として何かを区切るものではなく、色彩を伴った幅のある帯として画布に定着している。その幅が広くなり面として認識されても同じことだ。その色の対比、形体は、結局は画布の上に、画面のなかのそれぞれの要素のバランスの問題であり、それぞれの量に帰結する。その量とはなにかと突き詰めたときに、視覚的な問題として量を計ろうとしたところに先駆性がある。そのためにプロポーションは歪まざるをえない。人の形はそれぞれの部位が、空間のなかでどのような領域を占めるかが観察の基になるからだ。それは彫刻において顕著に現れる。部分から発想して全体が構成される。それぞれの塊の配置として全体が現れてくる。そのように対象物と空間を把握するために、空間は量で埋め尽くされる。色彩と線の。線によって色彩の量が変化し、色彩によって線の役割が変化する。壁に掛けた布は、そして壁に描かれた絵は、空間という漠然としたなにかに、量を与えるために必要となる。

高田マル 「この花、ダリア、ダリア、ダリア、」

NADiff Window Gallery、2024年3月28日〜4月14日

現代作家アートスペース個展

鑑賞日:4月12日(金)

 

線を引く。繰り返す。消す。線を引く。繰り返す。消す。この反復行為のリズムが、心臓の鼓動とシンクロする。生み出されていくのではない。古い何かから新しい何かへという時間軸を進むことも求めない。反復する。その場に留まることによって。まだ何も手にしていないのだから。手にしたものは、その瞬間に放棄せざるを得ないのだから。更新を否定しているのではない。成長を拒んでいるわけでもない。すべてを肯定する。そのために、私の内側にすべてを溜めていくことが必要だ。出発地点に留まることによって。見方によっては出発地点は複数ある。ならば、すべての出発地点に立とう。目指すとことは常に同じで、変わることはない。その場所へのアプローチの方法も選択できるだろう。しかし、そのための創作の手法は変わらない。反復する。一定のリズムを保って。肝心なことは感情を拒否することだ。感情に動かされたら、留まることはできずに、移動が始まってしまう。移動が始まると、そこには霊性は宿らない。感情ではなく感覚を主体として、線を引き、そして消す。