丸山太郎個展『魔性のセーブポイント』

TAKU SOMETANI GALLERY2023518日〜67

現代作家画廊個展

鑑賞日:531日(水)

 

いま目の前にある物体にどのような名称を与えようか。その物体が元来保持している機能は、一部取り払われ、別の領域に属していたものが挿入されている。機能はかろうじて維持されているのかもしれないが、無効化されているようだ。さて、機能とはなにか。目的があり形状が決定されて、その用途に沿って使用された時に、機能が果たされる。目的を変えると、その後の操作は同一でも、まったく異なる様相を見せる。そうであっても機能は別の機能として果たされる。機能を無効化するためには、何を為すべきか。その一つの解として複雑化が考えられる。いくつもの目的を複合することで機能に至るまでの経路を煩雑化するというものだ。その結果、元来あった機能に不具合を生じるとしても、そこには新たな機能が追加される。創造されるといってもいいのかもしれない。作者の手によってではなく、使用者の手によって。ここから演繹されるのは、機能という概念は無効化されず、消滅もしないということだ。すべてのものが、機能を持つことができる。

中村宏 戦争記憶絵図

ギャラリー582023516日〜63

現代作家画廊個展

鑑賞日:531日(水)

 

体験が身体のどの部分に残るのかは、その体験による。傷のように肉体に物理的な痕が残ることで心理的に体験が持続されることだけを、ここで対象にしているのではない。修練のように、習慣的に身体に沁み込んで、知らず知らずのうちに行動の規範を形作ってしまっていることも含む。この行動の規範は、普段自覚されることはない。規範の外に出ることがないからだ。しかし、否応なく自分の行動を縛り付けているものが確かに存在すると気づく。自分を拡げれば拡げるほど、外部のなにかと接続するほどに、行動の自由は刹那的なものでしかなく、規範は深く目の奥、首筋から四肢、内臓の隅々までを静かに支配していることが明らかになる。

 その規範から逃れるためには、規範と同化するしかないだろう。負だとしても正だとしても、規範に則り、そこから目を逸らさずに、世界と向き合う。規範を暴くことで、規範を白日のもとに晒し、無効化する。そのためには長い年月が必要だった。回り道をしつつ、すべての道は繋がって、内なる規範の周囲を巡り続けていたことが、今、ようやく見えてくる。

川島清 DOUBLE 銅版手彩色

ギャルリー東京ユマニテ2023529日〜617

現代作家画廊個展

鑑賞日:531日(水)

 

金属の針を持ち、銅の板を傷つける。銅の板の内部は均等ではなく、その粒子は層になって折り重なっている。その薄い、ほとんど厚みのない層の、重なりを目指して、針は銅板の表面に細かな穴を穿つ。穴はいつしか線となり、線は複数の層を行きつ戻りつし、線はやがて表面に帰ってくる。針を握る手と腕の意志よりも、その行為を司っているのは銅板だ。眼は銅板の反応を、確認・分析しているに過ぎない。雨が染み込んだ土の内部を露わにするように、針は銅板の内側を探っていく。そしてできた傷に、黒い油を充填させる。丁寧に整形した畝に注意深く種子を埋め込むように。決して発芽しない種を。そこに種があることにより、銅板の内側へと何ものかが成長していくという、呪術かつ象徴的な幻視が発動する。その幻視は、油が紙に吸い取られ、像が反転することによって、現実となる。幻を現実のものとする秘術のなかで、銅板の傷は役目を終える。癒されることなく、傷は傷のまま放置される。やはりその傷は癒やされなければならない。幻のなかで。そのために色彩という雨が、紙に染み込まれていく。

白井晴幸 「COPY | RAYS | VIEW」

HECTARE202353日〜528

現代作家画廊個展

鑑賞日:523日(火)

 

強い陽射しのなか、木々の葉が風に揺れる。風になびき、ゆらゆらと不規則な反復運動を繰り返す葉の向こうに青空が見える。青空と私の眼の間に存在するもの。それが何かは知っている。それがどうしてそこに在るのかもわかっている。それがなぜ動いているのかも理解している。しかし、それが存在していることの意味がわからない。キラキラと浴びた光を反射させながら。存在の意味は、どのような方法で確認、認識できるのだろう。そのためには対象をとらえる方法を創造しなければならない。在るのはわかっている。だから在ることを把握しつつ、在ること以外の属性を対象から引き出す方法だ。引き出されたものには、意味が付随しているだろう。なぜなら、ある操作を経たことで在ることは自明ではなくなるから、在ることが消えた事物に何が残るのか。事物と存在を分離させた時に、その分離を明示できるのは、影でしかない。キラキラとした光に目を向けるのではなく、光のシステムとその影を捕捉する。それは、事物を言語へと変換する行為でありつつ、その結果としての像が言語を持つことはない。

ダムタイプ|2022: remap

59ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示帰国展

 

アーティゾン美術館、2023225日〜514

現代作家海外展帰国展展

鑑賞日:512日(金)

 

情報はいつでも手に入る状況にありながら、まったく入ってこない。なぜだろう。デバイスはこの手にあるのに。デバイスの問題ではない。しかし情報を得るにはデバイスが必要なのか。いや、そうではない。デバイスはデバイスに過ぎないとして、デバイスと人間との関わりが、テーマだったかもしれない。そこでは、人間よりもデバイスが上位にあり、しかし掴むことの出来ない人間認識対して、潔い敗北を示していたようだ。

 情報は与えるものではなくて共有して友好活用するべきものであるのに、いかに情報を扱うかだけで、それが表現へと転化される。その行為こそが、世界の正義体系とでもいうのだろうか。情報の格差というものは、デバイスの扱いの習熟度の問題であり、個人の内部の問題に過ぎないと。

 そうではない。その気づきのための空間を作る必要があるのだという声が聞こえてくる。かつては社会告発の意味を含めたテクノロジーが、鎮静剤と化している。

「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄

千葉市美術館、202348日〜521

近現代写真企画展、公立美術館巡回

鑑賞日:512日(金)

 

日常を日常として生きる。その日々は常ならず、日々別のものとして現れる。しかしその日々の差異を取り立てて言挙げることなく、日々というものは変化するものとして、理解している。では、常とはなにか。変化が常としてある。その日常の変化のなかで、変化を意識しないことと、意識せざる得ないこととがある。意識する時には、日常が生々しく迫ってくる。そんなはずではなかったのにと。あるいは、ふと目を停めたものを凝視しその細部を認識することで、何物かに気付き、日常の外へと誘い出される。では、変化を意識することなく、日常でしかないものは、どのように認識したら良いのか。まずそれは認識できるのか。日常のなかから抽出できる要素がないことになる。平板なものを平板なものとして提示できるのだろうか。それは提示する意味があるのだろうか。そこにこそ言挙げをする意味がある。それは記録しなければならない。記録という形式でしかい言挙げることのできない領域だから。

横尾龍彦 瞑想の彼方

神奈川県立近代美術館 葉山、202324日〜49

物故現代作家公立美術館3会場巡回個展

鑑賞日:326日(日)

 

私は私ではない。私という個体は存在しているのだが、それは関係性のなかの一つの状態に過ぎない。そしてその個体も確固としたものではなく、無数の粒子の電気的な集合体に過ぎない。その無数の粒子は、周囲のさまざまな現象によって、揺れ動く。だとすると、私には意思というものがなく、自分以外の現象に動かされていることになる。なので、私自身も個体という概念はなく、どちらかというと風の、そして水の一形態とみなした方が、話が早い。

 その水が、土と水と油を手にし、自分の振動を増幅させて、周囲の風の動きに合わせて解き放つ。その土と水と油は、その場所に属することとなる。その土地の大気の揺らぎによって作られたものだから。その脇に佇む私はどこにも属してはいない。風の一部でありつつ、風にはなれない。自分を粒子に解体することもできない。周囲の微細な動きに共振しつつ、別の周波数で自らを駆動する。しかしそれは私の意思ではない。