野村和弘 むしろ、幸せの音

gallery 21yo-j202339日〜42

現代作家画廊個展

鑑賞日:319日(日)、25日(土)

 

世界から私が受け取った感覚と情報。それは私の身体に入ってきた時に、世界とはいったん切り離される。私自身が世界の一部であることに異論はもちろんない。皮膚および感覚器官において、私は常時世界と接続している。しかし、私の内部は、私に属するものだろうか。それとも世界に属するものだろうか。両方と言ってしまうことは簡単だが、それでは世界は混沌のままとなってしまう。私の内部から世界に手を伸ばし、世界を捉え直すために、内部は世界と切り離されているとしよう。この世界認識は間違っているに違いないのだが、今は世界の側の理屈による正しさを必要としていない。私のなかに入ってきた、かつて世界だったものの断片は、私のなかにあったものによって再構成される。世界の断片と私の内部が交換されると言ってもいいのかもしれない。それをもう一度世界へと返さなければならない。そうしないと世界が少しずつ減っていってしまうから。ここで二度目の交換が起こる。そしてこの時、私の内部は、すでに世界に存在しているものと交換される。私から世界への贈与という形式を取りつつ、贈り与えられるのは、言葉でしかない。それも言葉という形式を採ることなく。

長谷川 彩織「 迷子の風景 −水槽の花園− 」

KATSUYA SUSUKI GALLERY202334日〜321

現代作家画廊個展

鑑賞日:319日(日)

 

すべての細部が同じ価値を持った世界に入り込んだ時、視覚は喪失する。その機能は保持されているとしても、網膜から先の統合するエリアにおいて情報の混乱が発生する。だから網膜の快楽に委ねるということも考えられるのだが、それは花粉症とたいした違いはないといえるだろう。情報の混乱は、細部を無理に統合しようとするから起こるのであり、統合のルールが見つからないということでもある。では、その統合のルールとは何か。ルールがあるという前提で画面に向かう時、そのルールは過去に属している。その一方で、制作の際にもあるルールが適用されて細部が細部として存在する。細部の存在の方法からルールを導こうとして画面を見つめることになるのだが、しかしそのルールを認識、もしくは読解する必要はあるのだろうか。すべての細部が全体と等価なものとして存在するという事実から始めなければならない。そこには一定のルールがあるのではなく、細部ごとにルールを持って全体とネットワークを結ぶ。

坂口恭平日記

熊本市現代美術館、2023211日〜416

現代建築家美術館個展、自主企画単独開催

鑑賞日:315日(水)

 

  • 何かを作るということ、ある場所に暮らすということ。この2つは人として生きるということに結びついている。おそらく根源的なことでもあるだろう。もちろん定住をしなくても良い。数日の単位で移動しつつ生きていくという暮らしからもある。そうといっても、場所は必要となる。そして移動するにしても、定住するにしても、生きることは創作と結びつかざるを得ない。食糧を得るため。生活の用具を作るため。それだけではなく、生きていることを別の形に表すためでもあり、それは音として風ともに消えていくことも含まれる。その行為の一つとして記録することがある。何を記録しようというのか。記録すべきことはあるのか。現代社会において、生きるための日々の決まりごとを、翌年も同じことをするために記録をする必要は、ほぼ無いといえる。個人で記録をし、それだけをヨスガとすることなく、日々の生活はあらゆるインフラストラクチャーで保証されている。もちろんそのインフラストラクチャーが機能している限りではあるのだが、機能しないという事態を想定せずに、とりあえず生きることが可能とされている。そのなかで記録を残す。それも見たものを写し変えるというかたちで。自分がそれを見たという以上の意味は発生しないことは、日記と同じなのだが、その日記が普遍性を持ち得ないわけではない。しかし、それも現代のインフラストラクチャーが機能している間だけのことなのか。物質が時代を超えていくには、物質としての強度が必要となる。それが自明だからこそ、インフラストラクチャーよりも脆弱な方法を採ることで、現代という社会と対等であろうとする。

アーバン山水

Kudan house2023310日〜319

現代作家画廊外グループ展

鑑賞日:312日(日)

 

建築はその様式と様式の需要において、土地と時間と深く結びついて、生活の、そして風景の一部となる。それは人の生活の一部として、人の生活をゆっくりと変化させていく。眺めやる対象としてそこにあるかのように考えたとしても、それはもはや見る人の一部となっている。その不可分にして、しかし忘却の彼方へと後退してしまっている風景に、再度没入を促すものがあるとしたら、何か。情報は無いよりあったほうが良いと思えるが、それも比較のうちでしかなく、絶対ではない。内部にもう一つの風景を貫入することで、創造的相対性が生まれるか。かつてその相対性を視覚化するために、非風景が挿入されたこともあったが、その方法が一般化した後では、誰もが想像の非風景を持つこととなった。風景の文節のなかに別の風景を栞のように挟み込むことで、断層を垣間見ることができるが、それはまた捲られた頁の層のなかへと沈んでいく。層のなかで声のない何かが常に蠢いている。その響きに耳を澄ませなければ、次の風景は立ち上がらない。

戸谷森「pass by」

GALLERY TAGA 22023224日〜320

現代作家画廊個展

鑑賞日:224日(金)

 

描くということは、それを目的としていないにも関わらず、何かを表象することになってしまう。ここに問いが3つ生まれる。表象されたものは何であるか。それはどのように表象されたか。そもそも表象とは何か。この3つの問いは、どのような画面にも含まれているのであるが、それぞれ優先順位が異なっている。このなかで、表象とは何かという問いは、画面の外の事項と結びついているために、必然と画面は物質となって絵画は三次元の物体へと化す。画面は仮想の窓であることを許されずに、その平面上に盛られた絵具自体が、出来事となる。そこでは何が起きているのか。描かれた何かが、その形象において現実の何かに似ているか、似ていなくとも結びついたものなのかは、大きな論点にはならない。それは窓の向こうに何が見えるかという話でしかないからだ。描かれた形象が、どのように空間のなかに存在しているかが、問われるべきだろう。事物の配置によって存在を認識する。これにより空間という茫漠とした事物と事物を取り囲む、隙間ともいえる何かが、物事の成立を可能にする場へと変貌する。

黒坂祐「眺めと見分け」

KATSUYA SUSUKI GALLERY202324日〜226

現代作家画廊個展

鑑賞日:219日(日)

 

世界認識は、感覚器官に依るところが大きいのはもちろんのこととして、そのうえで世界認識の方法について思考を拡げるときに、感覚器官の特性についても触れる必要が出てくる。世界について認識するには、世界に偏在する様々なものの存在の属性とその関係性を見なければならない。それはどのような物体で、どのように存在するのかと。もしくはどのように存在していないのかと。その存在にまさしく触れることもでき、掌の内側にあるように把握することも可能ではあるのだか、その感覚を拡張し触覚的に世界を認識するという方法もあるだろう。もっとも原初的でもあり、造形的には彫刻の領域としてあるが、それを視覚と交差するように併用することも可能だ。視覚的な認識を量塊に置き換える。目の前にあるものや人物と空間との境界は、物質の密度と温度によって生まれる。そこで距離が問題となってくるのだろう。自分と対象との間にも、物質は充満しているから。視覚は距離を無効にし、さらには捏造するが、触覚は距離をかたちにする。

加藤学展

藍画廊、2023110日〜121

現代作家画廊個展

鑑賞日:117日(火)

 

空気の厚みになかに光の粒子が散っている。空気の流れとともに、その粒子たちも変化して、その先にあるはずの事物、山や川や家並みは、形を持たずに私へと届く。その届く間での変化を、その事物が有している時間として把握する。だから事物はある時間のなかで変化するものとして、存在する。それぞれの存在は互いに結びつきながら、しかし時間の切り取りの差異によって分離する。世界は断片化しつつあり、かろうじて全体を保っているものとしてある。しかしながら、全体を見ることはできない。だから視界という枠組みを設定するのだが、その枠組みを超えて事物は流動していく。やはり認識の拠り所にすべきなのは、視覚ではなく、時間なのだろう。それは変化としてしか感知することはできず、その変化のリズムを感知する器官は、わたしのどこにあるのか。感知した後に時間を物質に置き換える作業が発生することになるのだが、物質への置き換えはなにを基準になされるのか。視覚以外の方法で認識したものを、視覚へと置換する。