坂口恭平日記

熊本市現代美術館、2023211日〜416

現代建築家美術館個展、自主企画単独開催

鑑賞日:315日(水)

 

  • 何かを作るということ、ある場所に暮らすということ。この2つは人として生きるということに結びついている。おそらく根源的なことでもあるだろう。もちろん定住をしなくても良い。数日の単位で移動しつつ生きていくという暮らしからもある。そうといっても、場所は必要となる。そして移動するにしても、定住するにしても、生きることは創作と結びつかざるを得ない。食糧を得るため。生活の用具を作るため。それだけではなく、生きていることを別の形に表すためでもあり、それは音として風ともに消えていくことも含まれる。その行為の一つとして記録することがある。何を記録しようというのか。記録すべきことはあるのか。現代社会において、生きるための日々の決まりごとを、翌年も同じことをするために記録をする必要は、ほぼ無いといえる。個人で記録をし、それだけをヨスガとすることなく、日々の生活はあらゆるインフラストラクチャーで保証されている。もちろんそのインフラストラクチャーが機能している限りではあるのだが、機能しないという事態を想定せずに、とりあえず生きることが可能とされている。そのなかで記録を残す。それも見たものを写し変えるというかたちで。自分がそれを見たという以上の意味は発生しないことは、日記と同じなのだが、その日記が普遍性を持ち得ないわけではない。しかし、それも現代のインフラストラクチャーが機能している間だけのことなのか。物質が時代を超えていくには、物質としての強度が必要となる。それが自明だからこそ、インフラストラクチャーよりも脆弱な方法を採ることで、現代という社会と対等であろうとする。