「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄

千葉市美術館、202348日〜521

近現代写真企画展、公立美術館巡回

鑑賞日:512日(金)

 

日常を日常として生きる。その日々は常ならず、日々別のものとして現れる。しかしその日々の差異を取り立てて言挙げることなく、日々というものは変化するものとして、理解している。では、常とはなにか。変化が常としてある。その日常の変化のなかで、変化を意識しないことと、意識せざる得ないこととがある。意識する時には、日常が生々しく迫ってくる。そんなはずではなかったのにと。あるいは、ふと目を停めたものを凝視しその細部を認識することで、何物かに気付き、日常の外へと誘い出される。では、変化を意識することなく、日常でしかないものは、どのように認識したら良いのか。まずそれは認識できるのか。日常のなかから抽出できる要素がないことになる。平板なものを平板なものとして提示できるのだろうか。それは提示する意味があるのだろうか。そこにこそ言挙げをする意味がある。それは記録しなければならない。記録という形式でしかい言挙げることのできない領域だから。