100歳記念すごいぞ!野見山暁治のいま展


日本橋髙島屋S.C.本館8階ホール、20219日〜2021118

国内現代作家個展、主催:日本経済新聞社

鑑賞日:117日(日)


描くべきものは、常に目の前にある。色と形を伴って、手の触れられるものとして。見えないものは描くことができない。見えないように、描いたとしても。出来事は日々起こる。私が居ようと居まいと。なにかを目撃する。その出来事は私の手のなかにある。しかしどういうわけか、その出来事は、私の手のなかで変化していく。忘却を許さないかのように、溢れ出ようとする。画面の奥から手前へと。ものが溢れでてくる。私はそれを止める術を知らない。溢れたいように溢れさせるために、絵筆を走らせる。ゆっくりと。溢れを止めないように。目にした形と色は、はっきりと記憶している。溢れることによって姿を変えた理由もわかっている。それは一つのものであって、変化は仮の姿でしかなく、その実体は不変だ。溢れは私の手になかにある。何処へも行くことはない。

100歳記念 すごいぞ! 野見山暁治のいま

100歳記念 すごいぞ! 野見山暁治のいま

フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる

神奈川県立近代美術館 葉山、20219日〜2021411

海外物故現代作家個展

鑑賞日:111日(月)


紙の上に、もしくは布の上に、厚みのない色彩によって移し替えられた像に、もう一度肉体を、生命を与える。まずは、その人物が生きるための空間を規定し、与えなければならない。矩形の支持体という空間が既に規定され、そのなかで像は生を得ていると、多くの場合考えられているが、私はそうは思わない。その生は、私が与えたものではないから。元の絵を私が描いていたとしても、それは過去のものであり、現在には生は別の姿へと変容している。そしてこれからも変貌し続ける。私が目にすることのない時間も含めて、生が、変貌が持続する空間を手に入れる。そのために支持体に傷をつけ、絵具を塗布し像に空間と時間を重ねていく。像にかつて収められていた時間と、私の手によって創られた時間の間隙に空間が発生し、そのあわいで像は揺れ動き、生を獲得する。





上田亜矢子展「かたちの音階」

Gallery SU20201212日〜1227

現代作家画廊個展

鑑賞日:1220日(日)


発掘された古代の遺物は、白い石を削って加工されたものであり、その姿は人であり、かつ楽器とも目されるといわれている。確かに人は楽器となることもできよう。石も音楽を奏でることができよう。別の場所ーそこは最初の発掘地よりそれほどは離れていない。ただ時間の隔たりはずいぶんあると推測されているーでは、風によって石が音楽を奏でるという。しかし、その音楽を聴いたものは少ない。人であり楽器である発掘品は、実際のところなんであるのだろうか。人を表しているのか?音楽が現れるというのだろうか?その答えを見つけるためにも、今も人は音楽を形にしようとする。音階を、律動を、響きを、抑揚を。それぞれを単位として形に置き換え、並べてみたところで、それは音楽にはならない。音楽は総合的で根元的で、生そのものだから。古代の造型の細部を分析しつつ、石が発する響きのなかに身を浸す。

栗原佑実子展「project for Eternal mirror たゆたえど」

ギャルリー東京ユマニテ20201214日〜1219

現代作家画廊個展

鑑賞日:1217日(木)


世界は反射されることで眼球に捕えられ、視覚によって認識される。だから目にしているものは、実体ではなく虚像ということもできよう。皆、虚像が、虚像でしかないことを知りつつ、しかし気づかない振りをして生きていく。そこでは、どのように実体を把握できるのか。自らの肉体を傷つけるその痛みによって、生を感じざるを得ないのか。別の方法を探ろう。虚像をもう一度反転させると、なにが起こるだろうか。その反転に、もう一度反射の元となる光を加えたら。実体ではない実体がそこに現れるはずだ。その現れは、この世界ではないとしても。その現れた実体としか呼びようがないものを纏うことで、私は再生する。姿形に変わりはないとしても。反射を浴びた表面が、内部であり実体でしかないことが証明されるのだから。

大月雄二郎「油田の東」展

Galerie LIBRAIRIE 62020125日〜1220

現代作家画廊個展

鑑賞日:1211日(金)


旅が終わることはない。帰る場所を見失った訳ではないが、そこは帰るべき場所ではなくなったのかもしれない。移動は肉体というよりも、精神に依拠するところが大きい。目と耳と口と鼻と、全身の器官を用いて、その場にいながら、移動する。移動し続ける。大きく、そして小刻みに。時間の経過が必然的にもたらす変化は、それほど重要ではない。長期間一つの場所に留まり、絶えず全身を新たに置き換えることで、移動は成立する。であれば移動は旅なのか。目的はあり、しかし終わりのない旅。移動しないことも、旅の要素の一つだ。目的地に向かう。目的地とは帰る場所であり、まだ見ぬ場所として、目の前にあり、私は、今、そこに立っている。肉体は大きく動くことができない。精神が肉体から離れ、帰る場所を見失うことがないよう、今日も旅と名付けた静止を続けている。

橘田尚之「基底材とメデューム」

gallery 21yo-j20201210日〜1227

現代作家画廊個展

鑑賞日:1211日(金)


皮膚が裏返る。皮膚の裏側は、表としては機能できない。内部が空洞となっていたとしても。すべては筒状からの変形でしかないとしても。表と裏は、確実に存在し、交換不可能な状態としてそこに在る。だから表面を処理しなければならない。表と裏が本来同一であることに気づくように。表になることのできない裏側を移植するように。器用に、不器用を真似て成形する。裏を見せるために。表と裏を同時に存在させるために。ある時、逆転が起きる。表は、もはや表ではない。腐蝕と色彩を伴った、不恰好に繋ぎ合わされた面が、かろうじて立つ。それは開花の前兆。崩れるために、面を失うために、表面は繫ぎ合わされる。同じ素材は異質なものとして、異なる素材は同一であるかのように。そこで空間は捻れる。表と裏の二項対立から、表と裏の完全なる分離へと向かって。

村橋貴博「DOROTHY」

UTRECHT2020121日〜1213

現代作家画廊個展

鑑賞日:128日(火)


そこに在る。手を伸ばして触れる。触れたかのように扱う。そこにあまり差異はない。なぜなら触れたという感覚が、その後の展開を支配するからだ。全体は触覚によって形作られる。その形式がどこかで見たことがあるようなものだとしても、あくまでもその見たことあるものは、容れ物でしかない。なぜなら、その容れ物には容れ物以上の意味はないから。手にしたものを組み合わせる。そして、姿が現れる。現れたものはどこかで既に出会っていて、そして、未知の姿をしている。そこに在るのに、触れることができない。既に触れているというのに。無いと在るの狭間に存在するために、容れ物が必要であり、容れ物は容れ物にしかすぎない。触れているのは、在るものなのか、容れ物なのか。いや、確実に在る。今この手の中に。それを形として見せよう。形にはメッセージはなく、形でしかないことを、示すために。