やましたあつこ個展「Utopia」

TAKU SOMETANI GALLERY20201128日〜1222

現代作家画廊個展

鑑賞日:128日(火)


そこにあることは、わかっている。それは記憶のなか。見たことはないが、見た記憶がある風景。手を伸ばす。繰り返し。届いているはずなのに、触れたことはない。それでも確実に存在する。在るということを、作り出さなければならない。そこは私がいるべき場だから。とはいえ、場といっても、広がりはない。空間は存在しない。こちら側と向こう側の境界のみが、私の目の前にあり、私は向こう側へ行く必要があるのに、手を伸ばすことはできても、足を踏み入れるところがない。遮るものもないというのに。確かに見えているのに。誰が向こう側で待っているのかもわかっている。本当だろうか。それは誰なのだろう。誰でもいい。誰であれ、私自身でしかないのだから。こちら側にいる私が偽物。私は存在しない。いるはずがない。だから、記憶と向こう側とが繋がり、私のいる場所は存在しない。

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか

東京都現代美術館202011 14日〜2021214

国内物故デザイナー回顧展

鑑賞日:122日(水)


詰まるところ、人間は大地であり、土でしかない。土に別物の仮面や覆いを被せて、なにかを表現することに、どんな意味と機能があるというのか。土が、いくつもの変換の果てに摩天楼になったとしても、土でしかない出自を脱することはできない。目を背けるな。見続けろ。己れの姿を。なぜなら、皆土に還るしかないのだから。選択はできない。拒否もできない。土なのだから、土になるしかない。誰がそう想いつつ生きているのか。土であるしかない自分を感じているのだろうか。しかし、今一瞬、土と分離しているのかもしれない。だから色彩を纏い、形を変え、別の何かに変貌しようとする。過剰に、しかし、土と結びついた素材や色で。臍の緒を付けたまま飛び立とうとする。切り離すことはできない。ではその時、色彩と形は。

カール・アンドレ

TARO NASU202011 28 日〜12 26 

現代海外作家画廊個展

鑑賞日:122日(水)


まず単位について考えよう。単位とは、構成要素の最小限となるもののことだ。ここに一枚の鉄板がある。鉄板と「鉄板」という言葉と、どちらを単位にすべきか。一枚の鉄板は、サイズも重さも、その組成においても、単位となるには、付属の情報が多すぎる。というか、単位と認識するために分析していくと、結局は特殊な物体としてしか認識し得ない。単位となるには、抽象性が必要であることは誰もがわかっているはずだが、鉄板を見て、鉄板としか認識しない。では、言語は。その単位は、文字であり単語であり、語句となる。そして、それらは分解可能なものとしてある。最小単位と見做される文字、アルファベットの一文字でさえ、形と音に分解される。単語が崩れた時に。過剰に連鎖した時に。なにが崩れるのか。それは認識の方法だ。言葉が崩れた時に湧き上がる知覚。その対象と認識する側との境界がなくなる状況、それを具体、具と体が一致した姿と呼ぶのか。


冨井大裕 斜めの彫刻

Yumiko Chiba Associates20201017日〜1121

現代作家画廊個展

鑑賞日:1121日(土)


物の周囲には、なにかがある。そのなにかは、物によって変化する可能性がある。そのなにかは、領域が定まっていない。無限ということもできるし、ある範囲までと限定することもできる。しかし、領域を限定されたからといって、物そのものに変化が起きるわけではない。いや、本当にそうだろうか。領域によって、物は変化せざるを得ないのではないだろうか。物から発する力と、領域から攻めてくる力と。本当にその戦いは必要なのか。そこに別のファクターを挿入することを提案したい。それは、戦いを無効化することだ。それでもなおかつ、物はあり、領域はある。いや、そうであることはわかっている。物と領域以外のファクターを挿入するがために、物は存在する。限りない自己肯定として。在ることは在ることだと、高らかに歌いながら。

戸張花「内在ーImmanence」

LOKO GALLERY20201113日〜12

現代作家画廊個展

鑑賞日:1120日(金)


熱が放射され、液体は固化する。本来の姿に戻ったにすぎないことではあるのだが、元の姿ではない。加えられた熱が失われていくとともに鉄自体が有していた時間が放射され、新たな時間が取り込まれる。繰り返し繰り返し。時間の粒は、安定さを欠きつつ自立し、支え合いながら歪みを発生する。粒子のなかで時間は孤立し、結び合うことはない。ただ個別に存在する。その時間の粒は、再び液化し融合することを夢見るのであろうか。もはや帰らぬ時間を内に秘め、それでもなお、時に流れに身を委ねようと、その表面から錆びていく。空気に触れ。仮初めの安定を得て、その後は、完全に分解する。その時間を解放したがために。その時間は解放せざるを得ないものだったために。それもまた熱の放射の一形態であるが、それ以上に固化した時間が流れゆく状態として現前している。

阪口鶴代 ー中くらいの7つの詩ー

Gallery SU、20201114日〜1129 

現代作家画廊個展

鑑賞日:1119日(木)


顔料の粒子の一つ一つを感じ、私のものとし、私自身となるよう、支持体に載せる。その矩形の領域に、粒子が立ちあがり、積み重なる。層をなして、厚みを持ち始める。私のなにかが移し替えられていくが、私からはなにも減らず、むしろ増え、成長していく。時には、移し替えたものを刈り取らなければならない。それは、私が伸び縮みをするように、矩形の領域の粒子の層も伸び縮みをする必要があるから。層は時間とともに変化をする。私も時間とともに変化をする。層と私との間にある、ずれ。時間のずれ、場のずれ、私の変化によって発生する私の内側のずれ。そのずれが層を形成し、色彩をともなった形象として出現する。その形象は常に崩れつつある。かろうじてその姿を維持しているのではない。今まさに崩れようとしている。その危うさと、力強さ。内部に込められた力が、全力で硬直し、そのため全力で自身を解放しようとしている。

小川万莉子「misty form」

GALLERY 麟、20201118日〜125

現代作家画廊個展

鑑賞日:1118日(水)


空間を作る。視線が入っていけるように。それは、かつて見た光景。その光を再現する。そこに色彩はあるのか。風は流れている。その風の流れを、画面に留めるのか、送りだすのか。送りだす先は画面の奥。しかしそれは行き止まりになっている。距離は発生する。記憶との間に。であれば、空間も記憶と結びついている。視線の先には何もない。なぜならそこには色彩がないから。かすかな色彩の気配はある。それは風として。風はあたるものもなく、抜けていく。虚を。画面の奥で跳ね返り、記憶のなかを再び通り抜けるものとして。この往復運動を繰り返すなかで、距離は次第に狭まってゆく。厚みのない世界へと。元より記憶には距離がないのだから。記憶のなかへ。距離のない世界へ。