青木聖吾「この世界を紡ぐ」

LOKO GALLERY 2020102日〜1031

現代作家画廊個展

鑑賞日:1030日(金)


世の中が影の集積でできているのは、自明だ。それは、反射光で世界が成立しているのと同じように、現実を覆うもう一つの世界があるからだ。人はそのもう一つの世界を見ようとはしない。もちろん、見ることもできるのだが、見なくても生きていける。しかし、ある時、影は現れる。どうにもならないほどの現実感を伴った物質として。それを描写するつもりはなかったのだけれども、現れてしまう。それに気づくと世界の現れが変わる。その世界を覆っているものが、世界を構成する因子でしかないことが明らかになり、身体は分裂する。身体を統辞する法則の意味が失われるからだ。分裂する身体は、なおも全体を希求する。その全体が影であることも知らず。その全体が誰かに用意された仮の器でしかないことも知らず。だから、全体は崩れ、影は濃くなる。

児玉靖枝 asile

gallery 21yo-j20201016日〜111

現代作家画廊個展

鑑賞日:1030日(金)


無数の空間。形の定まらない、夥しい数の、小さく分けられ、すべてがひと繋がりの。花がそれを分節化する。枝がそれを再創造する。揺れる。動く。細かく、そしてゆっくりと。内に向かって凝縮し、そして外に向かって溢れ出す。絶え間ない運動があり、視線はすべてを見ることはできない。起こりつつあるものを把握するには、距離が足りない。私は、無数であり、かつ、ひと繋がりの空間と、外部との境界に立っている。内と外は、ある時逆転する。枝と花によって。枝と花は、こちらを向き、空間を手前に押し出して、境界を乗り越えようとする。私はそれを阻止するために、境界に立っているのだろう。意図せず。意識しないうちに、その役割を担わされている。私は進むことも退くこともできない。眼は前方を凝視し、足は微動だにしない。空間は私を浸食してくる。空間が私を押し出そうとする。

ドナルド・エヴァンズ

横田茂ギャラリー、20201026日〜1113

物故海外作家画廊個展

鑑賞日:1029日(木)


今、目の前に世界がある。確実に。私はその世界の一員として、生活をしている。はずだ。友人もいれば、職場もある。とはいえ、私はこの世界に満足をしているのだろうか。もちろん満足をしている。そのなかにあって、異世界を夢想する。具体的に。私の生活の一部として。私は現実に依拠しつつ、異世界の住人となる。そのためには、異世界において勤勉に働かなければならない。それは、切手を創造することだ。現実世界の行為は、異世界を生きるためのこと。切手を創造することは、異世界創造することではない。それはあらかじめ存在する。既にあるものを描きとめる。知らないが知っている人々。見てはいないが、見たことのある景色。描くことによって、世界は創造される。創造と現実のズレは解消されない。そのズレを埋めるために、今日も描き続けなければならない。


寺田真由美 不在について 5つのシリーズから

鎌倉画廊、2020912日〜1024

現代作家画廊個展

鑑賞日:1021日(水)


既にいない人の視線を体験する。病院の病室のベッドから見ていたであろう景色。その場所に私もいて同じ窓枠の外の景色を見ていた。しかし、見ているものは異なっている。同じ景色が同じではなかった。あの人は何を見ていたのだろう。そして、何を見ていなかったのだろう。さらに、何を見たかったのだろう。私が見たいものは、その人が見たかったもの。存在しないのは、その人自身であり、その人が見たかった景色。光景。世界。その目の前に存在するものすべて。その景色を私が見るためには、何ができるだろう。記憶の外へ。見たものの外へ。再現はできない。創造するしかない。どうやって。それは存在しないということを、証明する行為となる。何が存在しないのか。存在しないのは私ではなかったか。その場に私はいたのだろうか。私が見たものは、存在したのだろうか。そのために、景色は創造されなければならない。

平松麻展「待つ雲」

Gallery SU2020926日〜1011

現代作家画廊個展

鑑賞日:101日(木)


自分がどこにいるのかわからない。自分がどこに向かっているのかもわからない。地はある。天もある。その間に私は居て、私はいない。何か手にするものを探さなければならない。それは私自身だから。しかし、何もない。誰もいない。そうあるべきかもしれない。私の存在を確認する作業は不要だから。言葉は失われ、私ももはやいない。いないことでしか、存在することはできない。私の意思で存在しないのではない。私から私が出て行ったのだ。言葉を持っていないのではない。言葉が私から出て行ったのだ。 

 私は存在しているのだろうか。それすらも、意味のない問いなのだろう。しかし、私は手にする。一本の枝を。この世界で唯一私の存在を知るものとして。

大塚智嗣展 蘇生

巷房12020914日〜919

現代作家画廊個展

鑑賞日:916日(水)


表面を作らなければならない。作るべき表面を必要としているものも、元来表面を持っているとしても。表面を整えることで形が定まる。表面を施されなくても、形は既にある。どちらが本来の姿と呼ぶべきか。その表面は必要でない。「その」は、どちらの表面でもなく、どちらの表面でもある。形を全面的に受け入れたうえで、形の変容も企図した表面への介入。それは、表面の二重の否定としてある。作られた表面は、本来の表面になりようがないのだから。その作られた表面に覆われた形は無に還る。表面の内側は存在しない。表面が表面として実体を持ち、背後の形を消滅させて、横たわる。重みはどこへいくのか。その重みの存在に表面は耐えるために、より強固に表面はあり、外界を反射する。

リチャード・セラ ドローイング展

ファーガス・マカフリー東京、2020620日〜829

現代海外作家画廊個展

鑑賞日:81日(土)


大地に触れる。両手を土の表面で動かし、土を集め、跡を残す。形を作る。形は生まれる。どこかにあった物体が移動することで。それはまた、いつしか崩れ、失われることも、もちろんわかっている。私は私の行為の結果を残したいのではない。そのもの意思による、形の出現を求めている。それは決して偶然には起こらない。風が、雨水が、日光が作用することで、形が生まれることも知っている。しかし、それはそのものの意思ではない。自ら形を成すためには、そうなるよう状況を設定しなければならない。定められた状況から発生し、その形は状況を超えて存在することができる。私は素材と、生まれつつある形と一体化し、話し合い、コントロールする。完全に作られたものでしかないにもかかわらず、形は生き生きとして現れる。そして、自らの存在以外は語らない。生まれ出たものの特権として。すべての関係性から切り離されたものとして、そこにある。