中平卓馬 火―氾濫

東京国立近代美術館、2024年2月6日〜4月7日

現代物故写真家回顧展、国立美術館朝日新聞社共催単独開催。

鑑賞日:3月26日(火)

 

彷徨う時になにを見ているのか。彷徨うことが自らの生の証としている時に。見たものすべてが自分自身となるというのだろうか。しかし見ているものは即座に次の光景によってかき消されていく。その移ろいを、視覚的にとどめなくてはならない。彷徨い、移ろうことが、生きるということだから。と言いつつ、自問する。視覚的に固定されるということは、どういうことか。その固定されたものは、何を現すのだろうか。表さずに現れるものを信じる。それは光景の背後から出現するに違いない。即物的であればあるほどに。即物。物に即する。目の前にある世界。それは物体であり物質である。大気も水蒸気も波も。すべては物として私に押し寄せてくる。私はその物を受け止めなければならない。私は物の隙間を彷徨っているのだから。押し寄せてくる物たちを、私の生のすべてでもって跳ね返さないとならない。でないと、私は物に飲み込まれてしまう。

 

 

生誕120年 安井仲治 僕の大切な写真

東京ステーションギャラリー、2024年2月23日〜4月14日

近代物故写真家回顧展、公立私立美術館3館巡回

鑑賞日:3月26日(火)

 

写すということを写るということを考える。被写体として印画紙に定着された像は、写したいと願った像と、どこか違う。写したいものを写すための技術が、問題になるのか。その前に、写したいものとはなにか。さらには写るということは、どういうことなのか。その問いを重ねつつ、像を生み出していく。様々な手法で。様々なものを参照して。写したいものは、目の前にあり、見えているその光景ではない。その光景の一部を切り取ったところで、その一瞬の光を固定したところで、それは写したいものとは異なっている。写したいのは、世界に眼差しを向ける私の感情であり、私がなにを見ているかだ。その自問自答を繰り返していくなかで、新たな問いが発生する。写されるということは、どういうことなのかと。世界は切り取られ、像となることを望んでいない。しかし、像は浮かびあがってしまう。写されるということへの自覚もないまま。しかし、写された瞬間から、被写体の存在とは関わりのない物語りが始められてしまう。

 

 

 

川田順造『サバンナの博物誌』

読書録

 

川田順造、『サバンナの博物誌』、ちくま文庫、2001年12月20日第2刷

挿画:小川待子

 

こうした、新しい要素のとり入れ方で気がつくのは、新しい要素が古い要素との、直観的にあきらかな機能上の類似に基づいて採用されていることである。だから新しい要素は、より耐久性があるというような点で、古い要素を改良した代替物にはなっても、技術全体の枠組を変えるもとにはならないのである。(233-234頁)

 

 

 

VOICE 坂本太郎展

コバヤシ画廊、2024年3月25日〜3月30日

現代作家画廊個展

鑑賞日:3月26日(火)

 

地表が膨れ上がる。その体積をどのように把握するか。表面積を計測しても、その量塊を把握することはできないが、その内側を見ることもできない。そうであるならば、表面を厚みとしてとらえて、その厚みのなかに体積を埋設すればいい。そのためには地表を別のものに置き換えなければならない。さらに別のものの表面もまた、そのものの質感を破棄するために、さらなる別物へと置き換えなければならない。そのように二重に隔てられた表面ではあるのだが、さらにはその背後には空洞を孕んでいるとしても、その物体は塊として立ち上がる。その強固な表面をさらに物体として際立たせるために、異物を異物として身にまとう。加えて、表面に厚みがあることを示すためにも、視線は跳ね返さなければならない。硬質な表面によって視線を透過させないことで、物体は存在する。いくつもの部分の複合体として。塊であることを視覚的に拒否することで、塊を意識させる。そして、その地表は膨らむと同時に硬化していく。

高山登

YOKOTA TOKYO、2024年2月5日〜2月22日

現代物故作家画廊個展

鑑賞日:2月19日(月)

 

見えているはずなのに、意識しないで目を向けないものが、世の中には多すぎる。すべてを等質に見ることは、不可能だとしても、それらは日常にありふれており、人々の生活の一部ともなっている。意識しないのは、無意識のうちに意識の外に分類しているからだ。あることはわかっており、その存在の理由も理解しているが、無いものとする。下部構造のさらに下に据え置こうとしている。しかしそれは在る。もしくは居る。それらは、彼らは共同体を形成している。その共同体の姿もまた、世界の一部であり、世界を認識する入り口となる。その入口をご覧にいれよう。その臭気とともに。視覚以外でもその存在を認識するように。しかし、認識されるためにその存在を白日の元に晒した時から、臭気は次第に薄れ、その表面も滑らかなものへと変質していく。同化を求めているわけではないのだが、認識されるにつれて、存在が薄められていく。しかし無くなりはしない。入口がより開かれただけなのだから。

飯嶋桃代展 Sphinx―人間の台座

ギャルリー東京ユマニテ、2024年2月5日〜2月24日

現代作家画廊個展

鑑賞日:2月19日(月)

 

手に入れるためには、まず失わなければならない。充実を求めるために、虚ろを設る。かたちとはそれ自体で成立しているのではない。物体としても意味としても、なにかのかたちとしてあるのだから、そのなにかを求める必要がある。かたち以前のなにか。それを創り出そう。手を触れるとかたちができてしまうから、なるべく手を触れないように。かたちがなにかの指標とならず、かたちが自ら意味を発するように。吸い込み、吐き出さず、凝縮してゆく。なにかが。その虚ろに流し込まれるのは、影。過去の行動の軌跡を内在し、物質としては変容している。そして実体がない。かたち作られると同時に消えていく。そのような物質を流し込み、凝固させる。内と外、上と下といった空間の概念を反転させる。自らを支えるものを見つけるために。自らがなにによって成立し、自立しているのか。それを探すために、内は外に出て、外は内へと入り込む。反転し凝縮した世界のなかに閉じ込められ、さらに虚ろを求める。

豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表

東京都現代美術館、2023年12月9日〜2024年3月10日

現代作家公立美術館回顧展、自主企画単独開催

鑑賞日:1月18日(木)

 

観察をする。対象を設定して、その対象が何ものであるかを。自分との関係性から距離を測ることはしない。自分と対象との間に起きる出来事には興味はない。その出来事は結果として生まれるものではあるが、結果であって、目的ではないのだから。戦略と戦術を間違えてはならない。そこで観察のためには、繰り返しが必要となる。繰り返しの回数、その量で結果は変わらない。1+1は2にならず、1のままでなければならない。加えるのではなく、乗算となるように、そして量で意味が変わらないように。量は純粋に量でしかなく、新たな意味を持ってはならない。その乗算は、意味において同質のものから構成される。そして決してヴァリアントを作らない。物事は変わらないということを証明するために、同じではないものを作り続け、観察する。観察は制作と同義となり、制作をすることによって、観察は消えていく。観察が消えた時、私と対象との距離もなくなり、私は消える。私が対象のなかに含まれることはなく、制作と一体化することもなく、ただただ私は消滅し、同じ意味を持つ夥しい数の何ものものかが、残されていく。